第一次世界大戦と、世界や日本の様子

第一次世界大戦が始まる背景

19世紀末、欧米諸国は世界中に進出し植民地としていた。

ドイツは強国となり、オーストリア、イタリアで三国同盟(1882)を結んだ。一方、ロシア、イギリス、フランスは三国協商を結んだ。(1907)こうして20世紀初めは三国同盟と三国協商の両方が軍事力を増強して対立し緊張状態にあった。

バルカン半島ではスラブ民族の独立運動が盛んとなり、「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれた。

スラブ民族を中心とするロシアは南下政策を進めるため独立運動を支援したが、オーストリアは独立運動を抑えるためバルカン半島に進出しようとした。

 

第一次世界大戦が始まる

1914年(大正3年)オーストリアの皇位継承者夫妻がサラエボでスラブ系のセルビア人に暗殺された。このことをきっかけとして、オーストリアに宣戦布告をした。間もなく、ドイツ、オーストリア、オスマン帝国を中心とする同盟国と、イギリスフランス、ロシアを中進国とする連合国に分かれて第一次世界大戦が始まった。

 

この戦争は4年に及んだ。塹壕戦で大砲、機関銃、戦車、飛行機、毒ガス、潜水艦が使われて大量の死者がでた。

  死者数(およそ)
連合国イギリス90  万人
フランス136 万人
ロシア170 万人
セルビア4.5 万人
イタリア65 万人
アメリカ12 万人
日本300 人
同盟国ドイツ178 万人
オーストリア120 万人
トルコ33  万人

この戦争では、1000万人近い兵士が戦死し、2100万人が負傷したと推定されている。

 

この戦争で、各国は兵士、物資を戦場に送り総力戦となった。イギリスとフランスは植民地の人々も兵士として動員。日本は日英同盟に基づいてドイツに宣戦布告アメリカは1917年に連合国側で参戦。工業力のおとる同盟国側は1918年降伏した。

 

第一次世界大戦中のロシアの動き

ロシアでは、政府の弾圧があったが社会主義が広がった。戦争中は、食料が不足して、生活が苦しくなり戦争や皇帝の専制に対する不満が高まった。1917年(大正6)に「パンと平和」を求める労働者のストライキや兵士の反乱が続いた。そして、代表会議(ソビエト)が各地に設けられた。皇帝が退位して、臨時政府とソビエトが並立した。社会主義者「レーニン」の指導の下、ソビエトに権力を置く新政府ができた。(ロシア革命)

この革命政府は史上初の社会主義政府だった。

 

シベリア出兵とソ連の成立

革命政府は、土地を貴族からうばって農民に分配した。銀行、鉄道、工場などを国有化して社会主義政策を進めた。

民族自決」を唱えて帝国主義に反対した。ドイツと講話を結んで第一次世界大戦から離脱した。

ロシア革命は、資本主義に不満を持ち、戦争に反対する人に支持された。ロシアの戦争離脱に反対するイギリス、フランス、アメリカ、日本はロシア革命に干渉戦争を起こし、シベリアに軍を送った。(シベリア出兵)革命政府は干渉戦争に勝利して1922年にソビエト社会主義共和国連邦(ソ連)が成立。

 

独裁と計画経済

ロシア革命を指導した政党は名前を共産党に改めた。ソ連以外では社会主義革命は実現できなかった。レーニン後のスターリン」は1928年(昭和3)年から「5か年計画」を始め重工業の増加と農業の集団化を行った。そのさいに数百万人の農民の餓死があった。国に批判的な人は追放・処刑された。

 

ベルサイユ条約と国際連盟

第一次世界大戦後、1919(大正8)年にパリ講和会議が開かれた。イギリス、フランスなどの戦勝国が戦争責任をドイツに押しつけ、ドイツの弱体化を目指して厳しい条件を課したベルサイユ条約ではドイツは領土を縮小され植民地を失い、巨額の賠償金や軍備縮小を課された。

講和会議でアメリカのウィルソン大統領によって「民族自決」の原則が唱えられたが、アジアやアフリカでは植民地支配が続いた

1920年に世界平和と国際協調を目的として国際連盟が発足。本部はスイスのジュネーブ。イギリス、フランス、イタリア、日本が常任理事国。

 

国際強調の時代(1920年代)

第一次世界大戦後、アメリカが世界経済の中心となった。アジア、太平洋地域の発言力を強めたアメリカは1921年ワシントン会議がおこなわれた。海軍の軍備を制限、太平洋地域の現状維持、中国の独立と領土の保全を確認。日英同盟解消。ドイツの国際連盟への加盟を認められる。

民主主義の拡大

戦後西欧では、普通選挙による議会政治が普及した。女性も多くの国で職業と選挙権を得た労働者の権利の拡大を求める運動が高まり、ストライキも起こるようになった。1919年のドイツのワイマール憲法は、男女普通選挙、労働者の権利、社会福祉政策を定めた世界初の憲法となった。

第一次世界大戦中の日本の動き

山東省のドイツ租借地や南洋諸島を占領。

・1915(大正4)年中国に対して「二十一か条の要求」日本が山東省の権益をドイツから引き継ぐことや、日露戦争で獲得した旅順・大連などの租借期限の延長を要求。中国は反発。

中国の反帝国主義運動

中国は、山東省の権益の返還を要求するが、パリ講和会議で拒絶され反日運動へと発展。1919年5月4日北京の学生による反日運動が全国的に広がった。(五・四運動)孫文は中国国民党を結成し、1921年結成の中国共産党と協力して国内統一。

1921年から開かれたワシントン会議で山東省の権益を返還する。しかし、旅順・大連など満州の権益の回収を求めて日本製品の不買運動。

朝鮮の独立運動

1910年に韓国併合されていた朝鮮は日本の植民地となっていた。「民族自決」の考えの影響を受け1919年3月1日知識人や学生が「独立を宣言」しデモ行進(三・一独立運動)日本は朝鮮人に対して同化政策を進めたので独立運動は続いた。

インドの民族運動

大戦中、イギリスはインド人兵士を戦場に動員したが、インドに自治を与えると約束して守らなかった。ガンディーの指導で非暴力・不服従の抵抗運動が高まった。

大正デモクラシーと政党内閣の成立

第一次護憲運動

1912年立憲政友会の内閣が倒れ、桂太郎首相になると、憲法に基づく政治を守る運動が(第一次護憲運動)が起きた。

 

大戦景気と米騒動

第一次世界大戦によって、日本経済は好況になった。(大戦景気)

しかし、好況で物価が上がり民衆の生活は苦しくなった。1918年にシベリア出兵を見越した米の買い占めから、米の値段が上がり、米騒動が全国に広がった。寺内内閣は軍隊を出動して鎮圧。

本格的な政党内閣の成立

藩閥の寺内内閣が米騒動によって退陣。平民宰相と呼ばれた原敬内閣誕生

立憲政友会で組織する政党内閣。選挙権の納税額を引き下げた。

 

 

大正デモクラシー

第一次世界大戦後、民主主義(デモクラシー)が強く唱えられた。(大正デモクラシー)

政治学者の吉野作造の民本主義(政治の目的を一般民衆の幸福や利益において、政策を決定すること)

第一次世界大戦後は、労働運動、農民運動、女性運動などの社会解運動が活発になった。ストライキなどの労働争議、農民による小作争議もおこる。

部落差別に苦しむ人は部落解放運動を行った。(全国水平社)の結成。アイヌ民族の解放運動。

女性の解放を唱えて「平塚らいてう」政治活動の自由、女子高等教育充実、男女共学などを求める運動。

大正時代の文化

教育の広がり

明治時代に比べ、中等、高等教育が広がった。中学校、高校の進学率が高まり、大学や専門学校の数が増えた。

メディアの発達と文化の大衆化

新聞・雑誌・書籍などの活字文化が普及

活動写真(映画)、蓄音機、歌謡曲が流行。ラジオ放送、大衆小説、映画、歌謡曲、スポーツの娯楽。

新しい思想や文化

哲学者 西田幾多郎

志賀直哉、谷崎潤一郎、芥川龍之介、小林多喜二

山田耕筰

都市の生活

市では欧米風の生活様式が広がった。ガス、水道、電気

ライスカレー、とんかつ、コロッケなどの洋食、

バスガール、電話交換手など働く女性が増加

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